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【あんなぁ よおぅききや】NO.00 はじめに

あんなぁよおぅききや

父は明治二十五年、麸屋の息子として生まれ、麩一筋で生きてきた人でした。

五十代の一番脂の乗り切る時の昭和十六年に戦争が始まり、麩の原料小麦が統制品になったため、
麩を作ることができない時期が十年ほどありました。

戦争は、問屋町市場で大勢の職人さんを使って麩を作る商いを盛大に行い、名古屋に支店を出し、
大阪に麩を主とした料亭を始めたりしておりました。
しかし、戦争が始まり、食糧難で原料の小麦粉が入らないため、全く商いができなくなりました。
戦後は超インフレで、一枚ずつ身ぐるみを剥いでいく売り食いの、いわゆる『竹の子生活』の
暮らしで、「道具や物を売っても、ひと月暮らせる心算(つもり)が三日で無くなるほどの
インフレで大変だった」と母はこぼしておりました。

「こんな世の中が無茶苦茶になり、人間同士が殺し合うて大勢の命を奪い、家族を泣かせるような
戦争をしよって、馬鹿なやつがいたもんや」
「闇の麩を作れば儲かるのはわかっているけど、ご先祖さんが大切にしてきた麩を闇で作ることは、
申し訳なくてできひん。このまま馬鹿正直な麸屋のままでええ」

父が犯罪になる闇の麩を作ることができない一徹者だったのは、代々のご先祖さまの血や、家訓の
「先義後利」(せんぎごり)の教えがそうさせたのかもしれません。
昭和二十七年、統制が解除になり自由に麩が作れるようになりましたが、戦中に鉄の供出で機械や
焼き釜を正直に出したため、すぐに麸屋を再開することができないありさまでした。
生活の為にすべての財産を無くした痛手は大きく、病に倒れた父は、自分の代で商いを立て直す
のを諦めていたようでした。

一縷の望みを、次の代の私に託したのでしょうか、父と二人になった時、その場の状況に合わせて、
商人の心構えや、人間の生き方、命の尊さなどを子供の私にもよくわかるようにいろんな話をして
くれました。

幼い頃に聞いた父の話も長い間忘れていましたが、最近、改めてその頃のことを思い出しますと、
次々とその時の情景や言葉が思い浮かんでくるのが不思議です。
約二十年余り、毎日のように話してくれた父の教えを書き始めますと、切りがないほどあります。

話している途中に、肝心なところになると、父は口癖のようにこの言葉が出てきます。

「あんなぁ よおぅききや」
聞きや 一言一句もらさず聞きや
聴きや よく聴いて覚えておきや
利きや 役に立つように気を利かしや
効きや 立派な効果を期待してるよ

父はどの『ききや』を指していたのか、どれもみんな、大切な『ききや』だと思います。
いろいろと話してくれた父に感謝し、頭の中にじっくりと入るような話し方を思い出しながら、
書くことにいたします。

                                       玉置 半兵衛

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